みなさん、褒められたり感謝されたとき、どんな形で返事をしていますか?「いえいえ、私なんてまだまだです」「とんでもないです」なんて、つい言っちゃうことありませんか?実はこれ、日本人ならではの特徴のようです。「否定の報酬」と言えるこのやり取りには、日本の文化や私たちの生き方がギュッと詰まっていると考えられています。石川善樹さんの本『むかしむかし あるところにウェルビーイングがありました 日本文化から読み解く幸せのカタチ』を読んで、「ああ、これ私のことだ!」と思う場面がたくさんありました。今回はそんな「否定の報酬」を手がかりに、日本人らしさや幸せの形についてちょっと考えてみませんか?否定を否定されて、初めて「そうかな?」って思える不思議石川善樹さんいわく、日本人って「自分を肯定するのが苦手」な民族なんだそうです。そう言われると、心当たりありませんか?たとえば、職場で上司に「○○さんの提案、すごく良かったね!」って言われたとき。「いや、全然まだまだです」なんて返しちゃったりしますよね。でも、上司が「いやいや、そんなことない。本当に良かったよ」と言ってくれると、「あ、そうかな…?」と、少しだけ納得できる。自信が持てる。これがいわゆる「否定の報酬」です。ちょっと回りくどいな、と思うかもしれませんが、ここにはちゃんと意味がありそうです。日本人にとって「否定の報酬」は、人間関係をスムーズに保つための知恵なんじゃないかって思うんです。日常の「否定の報酬」あるあるさてこの「否定の報酬」、実は私たちの毎日の中にしっかり根付いています。いくつか例を挙げてみますね。きっと「あー、あるある!」って思うはず。褒められたとき「お料理、ほんと美味しいね!」と言われたら、「いやいや、まだまだです」と謙遜する。贈り物を渡すとき手土産を渡すときに「つまらないものですが…」とお決まりの一言。仕事を評価されたときプレゼンがうまくいって「素晴らしい提案ですね」と言われても、「いえ、本当にまだまだなんです」と自分を引き下げる。友達に手伝ってもらったとき「助かったよ、ありがとう!」と言うと、「いやいや、大したことしてないよ」と返ってくる。外見を褒められたとき「その服、とても似合ってる!」と言われると、「え、これ?安物だよ」なんて返しがち。親切な行動に対してエレベーターのボタンを押してもらい、「ありがとうございます」と言うと、「いえいえ、当然です」と謙遜される。こうやって見ると、日本人は本当に「謙虚のプロ」って感じですよね。でも、このやり取りを通じて、お互いに良い距離感を保っているのかもしれません。昔話『笠地蔵』と否定の受容「否定の報酬」は、昔話にも通じるテーマです。著者の石川善樹さんによると、たとえば『笠地蔵』のお話も「否定の報酬」と繋がるとのことです。貧しい老夫婦が、売るはずだった笠を雪の中で地蔵様にかぶせてあげます。「これしかできないけど、どうか風邪をひかないでくださいね」と。するとその晩、地蔵様が贈り物を持ってきてくれるんです。老夫婦の善意が思いがけず報われるストーリーです。ここで大事なのは、老夫婦が何も見返りを求めていないこと。「自分はこれくらいしかできない」という謙虚な気持ちから行動し、その行動に対して笠地蔵が「そんなことありませんよ」と対応する形で、贈り物を渡している。老夫婦は「否定の報酬」で結果的にちょっとした幸せを得たとも言えるのではないでしょうか。藤原定家の俳句:「侘びの中の美」また、俳句でも「否定の受容」が感じられるものとして、石川善樹さんが藤原定家の歌を紹介していました。「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」最初に「花も紅葉もない」と否定し、華やかな風景がない、なんだか寂しい。けれども、その後に「浦の苫屋(わらぶき屋根の漁師小屋)」を描くことで、日常の中にある美しさを見つけ出しているんです。「何もない」と否定した後で、「そんなことない、漁師小屋があるじゃないか」とその発言を否定している。否定した先に華やかじゃないけど静かな美がそこにある。この感覚、日本人の私たちの感性に意外としっくり来るかもしれません。人間関係を良くする「否定の報酬」石川善樹さんの笠地蔵や藤原定家の歌の話をもとに、改めて「否定の報酬」の現代あるあるを考えてみると、「否定の報酬」は単なる謙遜ではなく、人間関係をうまく保つための知恵であるとも考えられそうです。最初に自らを「否定」して入ることは、おそらく、自らを良く見せすぎないための協調の価値観によるものではないでしょうか。石川善樹さんも著書の中で、このように話されていました。諸外国に比較すると、日本人の自己肯定感は著しく低いことが良く知られています。多くの人が「自分に自信がない」と感じている。ーーーー なぜなら日本人にとって、自分で自分を肯定することは「粋じゃない」とされてきたからです。ところが日本人は、評価されても「いえ、私なんてまだまだです」と反射的に自己否定せずにはいられない。それに対して相手が「いやいや、そんなことないよ」とさらに否定を重ねてくる。つまり、否定を否定されて初めて自己肯定できる、というややこしい構造になっているのです。 そのような否定の報酬を経て、ようやく「恐縮です。ありがとうございます」という受容の言葉が出てくる。これもまた、日本文化ならではでしょう。日本は昔から農耕社会でムラ社会が重要な役割を果たされ、集団の秩序や協調性が重視されて和を乱すのは良くないとされていました。聖徳太子が制定した十七条憲法では「和をもって尊しとなす」という言葉がありますが、飛鳥時代には協調性を良しとする文化が存在したことがわかる一文です。儒教の影響も大きく、儒教によって「上下関係」や「秩序」を重んじる考え方が浸透し、儒教の価値観が「武士道」に続いていきます。個人の思想よりも集団の意志が優先される世界では、協調しないことが大きなリスクだったはずです。とはいえ、自分が自分を否定したことを、相手に無視されたり肯定されてしまうと、自己肯定感が徐々に下がっていくはずです。そこで、自らの「否定」を相手に否定してもらう、相手の「否定」をこちらが否定する。周りとも歩幅を合わせる日本人だからこそ、否定に否定で返すことで、相互に安心できる・幸せを感じられるコミュニケーションを取っていたのかもしれません。このような「否定の報酬」のやり取りが持つ優しさや温かさを大事にしながら、コミュニケーションをとっていくことを忘れずにいたいです。おわりに今回は、石川善樹さんの本『むかしむかし あるところにウェルビーイングがありました 日本文化から読み解く幸せのカタチ』で取り上げられていた「否定の報酬」についてご紹介しました。ちょっと回りくどいけれど、そこには相手への思いやりや優しさがあるのかな、と思います。次に誰かから褒められたり感謝されたとき、ただ「いやいや」と否定するだけでなく、その背景にある文化の深さや温かさに思いを馳せてみてください。そして、そんなやり取りを少しでも楽しんでみるのもいいかもしれません。参考図書:ご興味あれば、どうぞ!むかしむかしあるところにウェルビーイングがありました―日本文化から読み解く幸せのカタチ著者:石川善樹/吉田尚記写真:Amazon 商品紹介ページより